NHKでいじめ特集をしていました。
よく「今の子供は」なんてことを言う人がいますけど、
「昔からいじめはあった」んですよね。
私が中学生のころからいじめはありました。
「いじめの定義」が小さなものでも拾うようなものになり、
いじめの認知件数が増えたことは最近のことです。
私は中学生のころ「いじられキャラ」という位置づけでした。
しかし、当時の私が自分でそう考えていたわけではなく、
同級生が私が「いじられキャラ」なんだというふうに決めつけ、
言いふらしていたのでした。
このご時世それだけでも本人が嫌だと思っているのだから、
これは立派な「いじめ」です。
私は何か行動するたびに「いじられ」、
笑われることで、
「自分の行動が間違っている」かもしれないと自信が持てなくなってきたのでした。
「いじり」という名の「いじめ」の負のスパイラル
自分自身の一つ一つの行動に自信が持てないので、周りが気になる。
周りは「いじり」という名のもとに私をネタに会話し、笑う。
さらに自信がなくなる。
中学3年生のころ、私は自分が嫌いで仕方ありませんでした。
当時の私はパソコンでインターネットをすることだけが楽しみでした。
ADSLが少しずつ世に浸透してきた時期で、
パソコンを通して世界の人たちと話す経験は、
私にとって「外の世界を生きる」救いでした。
担任のすすめで同級生があまりいない高校に進学しました。
今考えてみれば、担任の先生は私の立ち位置を考えてその高校を進めてくれたのかもしれません。
そもそも知っている人が少ない高校の同級生たちは、
会話のきっかけとして自分がすごいと思ったことや感心したことを素直に伝えてくれました。
そうやって「一から関係性を築いていけた」ことで中学のころとは全く違った人間関係を作ることができました。
大学では、専門分野の話を深くできる友人が増えました。
彼らもまた「感心したこと」や、
「頑張っている」ことについてきちんと口に出して尊敬を表すことのできる素晴らしい人たちでした。
私は自分の行動に対して周りの友人が「頑張っている」、
「結果が出てる」と伝えてくれることで、
自分で自分を「褒める」ことを許すことができました。
自分に自信がない人は、
「自分をうまく褒める」ことができないのです。
「ふつう」に生活できていれば、
無意識にできることが、
うまく経験できなかった人は自分で練習するしか手はありません。
でも、「褒めかた」がわからないから周りから教えてもらうしかありません。
今いる環境の中で周りの人を変えるより、
自分がほかの環境に飛び出すほうが早いんだと感じることのできた私の経験です。
今さら、中学時代の関係者に何の感情もわきません。
どうぞ私の知らないところで幸せになってもらいたいものです。
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